d2.世の調律と:戦争と戦時性暴力

sn.d2.本土の沖縄化を明確にする仕打ち

site  up 20210306土

朝日新聞より。こういう記事は有料にしないでと思います。亡くなった方達を遺族に届ける為にも。

沖縄の壕から遺骨、大人6人・子ども2人か 激戦地付近:朝日新聞デジタル 沖縄県糸満市で2月末から今月にかけ、大人6人、子ども2人とみられる遺骨が見つかった。沖縄戦の戦没者の遺骨とみられる。近年www.asahi.com

〉沖縄の壕から遺骨、大人6人・子ども2人か 激戦地付近
〉吉本美奈子 2021年3月5日 朝日新聞(有料記事)

*リンク先が期限切れの場合があります。

〉〉浜田さんは、以前発掘した遺骨は厚生労働省のDNA鑑定に時間がかかり、発掘から検体の抽出まで1年以上を要した、と問題点を指摘。「遺族も高齢化している。もっと早ければ近親者が存命し精度の高い鑑定ができた遺族もいたはずだ」と残念がる。

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〉周辺の靴や装備品から、大人の遺骨は日本兵のものとみられる。ともに発掘された遺品には「中川」と記された万年筆の一部や米軍兵士のものと考えられるボタンなどもあった。現場周辺は、北海道出身者を中心に構成された第24師団歩兵第32連隊第1大隊が激戦を繰り広げた場所とされる。

〉2019年度の県の収骨数は暫定値で59柱。うち糸満市は38柱を占める。県の担当者は「この7、8年は1カ所から見つかる遺骨は1~3柱という例が多い。5柱以上は多いと思う」と話す。

〉手作業で慎重に発掘された骨は汚れを取り除き、県の戦没者遺骨収集情報センターに届けられる。今後は「みらいを紡ぐボランティア」で戦没者の遺族からの希望を募り、国のDNA鑑定で身元を特定し、遺族の元に届けたいという。

〉沖縄県では、名護市辺野古の基地建設をめぐり、埋め立て土砂の調達先に本島南部が含まれ、遺骨交じりの土砂が使われるのではという懸念の声が上がっている。団体の浜田哲二事務局長は「今もこうして遺骨が見つかる事実のもと、それをご遺族の元に返す活動を続けたい」と語る。

〉浜田さんは、以前発掘した遺骨は厚生労働省のDNA鑑定に時間がかかり、発掘から検体の抽出まで1年以上を要した、と問題点を指摘。「遺族も高齢化している。もっと早ければ近親者が存命し精度の高い鑑定ができた遺族もいたはずだ」と残念がる。

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一度、沖縄南部に遺骨収集に行ったことがあります。辺野古では、テーブルサンゴの海で泳ぎ、平島の神人の儀式にご一緒させて下さいました。地元の人でも参加させてもらえないという神人の儀式です。ガマの天辺は抜けていて、空から日が差し込む、その見上げる岩肌には自然のサンゴの造形の、天の岩屋の女神のような女神が祀られていました。神人のおばあさんは、島を守りたくて、四国遍路したと仰っていました。沖縄の伝統的な神仏混交の儀式なのだと思いました。冬至の日招き(ひおき)の儀式です。

その後、那覇に移動し、沖縄戦の最前線を生き抜いた大田昌秀さんと、お話しして頂きました。高校生で徴兵され(激戦地は中学生の男の子さえも徴兵されたとか)、そういう少年兵は最前線に立たされ、120人の同期のうち、生き残ったのは大田さん含めて4人、大田さん以外の3人は、戦争トラウマで、若い頃から山奥の精神病院に閉じ込められたままだったそうです。

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4/1の沖縄本島(3月末に慶良間諸島)上陸から、6/23の沖縄戦終結まで、沖縄の住民の1/4が殺されたといいます。

8月には小笠原に空襲、疎開、私の父島の、当時16歳だった友達は欧米系先住民のマイノリティで、両親が欧米系先住民と日本人との混血でした。その為、金髪で青い目の母親は鬼畜米英と、疎開先で常に憲兵に見張られ、食べ物を分けてもらえず、亡くなったと話してくれました。友達も栄養失調でそれ以来、歯がガタガタになったそうです。

硫黄島の摺鉢山の犠牲者は兵士だけど、沖縄は一般住民です。命は等しく尊くても、扱いも犠牲にされたものも、その任務内のものと、日常生活のものとでは、全然違います。

各都市への空襲が始まり、1/14に伊勢市に空襲、2月に硫黄島上陸、3月に硫黄島玉砕、4月に沖縄上陸…長野の大本営着工とほぼ完了までの期間と続くように、6/23の沖縄戦終結しますこれも、自分で松代大本営の従軍慰安婦について、調べながら知ったことです。そういう細かい事実は教科書では教わりませんでした。

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もし南部の沖縄戦の犠牲者の人骨混じる土砂を、辺野古など基地の埋め立てに使ったら、本土の沖縄化は絶対に思います。そこで犠牲になるのは、戦場に立たされる兵士ではなく、その兵士のトラウマ吐け口の矛先となる女性、子ども、弱者です。その残酷さの濃さの連鎖、暴力の連鎖の深刻さって、生態系の理論のように明確に思います。

自分に進める道のない時、学ぶことでしか道を作れずにいた時、両親にそのトラウマの理解をされず、家から出してもらえずにいた時、両親(母親)に言ってくれて、道を作って下さった一人(もう一人は日野原重明さん)です。沖縄戦の子供達の写真集に「学ぶ喜びを」とメッセージを書いて下さいました。

「どうして沖縄戦のトラウマを生きられるんですか」

と、自分の性暴力被害のトラウマを生きたくて聞きました(そもそも沖縄の縁は米兵による、性被害者の縁だった)。聞いてはいけなかったのかもしれないけど、トラウマが辛くて、生きたくて恐る恐るという感じに聞きました。その時のこと、もっと整理して書く必要があるのかもしれません。沖縄戦の悲しみの「不立文字」。

「性暴力被害のトラウマが辛くて、どう生きたんだろうって思ったんです」

と、もうひと言。帰りにその写真集にそのメッセージを下さいました。沖縄戦最前線に立たされたトラウマを、どう生きてきたか、どうしたら生きられたか、今も思います。

犠牲者の方々には、弔意の合掌を。

*メッセージは【主旨と投稿ルールbyゆき花】と同意とします*